昭和49年08月21日 朝の御理解



 御理解 第63節
 「一粒万倍といおうが。一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるようになるから、よい手本になるような信心をせよ。」

 一人がおかげを受けたのでというおかげとは、どう言う様なおかげかと言う事。一人がおかげを受けたので、千人も万人も助かるうような、そりゃもう例えば、皆さんが助かった、おかげを受けた。だから千人も万人もというのではなくて、千人も万人も助かるような、いわば助かり方というものが、普通の助かり、おかげを受けたと言った様な事じゃ、駄目ですね。
 病気が良くなりましたとか、願い事が一つ二つ成就したと言った様な助かりでは、事実そうはならない。一人がおかげを受けて、千人も万人も助かる様なと言う事は、真実人間が助かると言う事です。本当の意味で助かると言う事です。しかもその助かりはです、神様の助かりにも繋がるほどしの助かりです。私は今日は歓天喜地と言う事を頂いた。かんてんというのは歓びですね、歓天の歓び。きちというのは地の喜び、これは喜ですね七という字を三つ合わせた。歓天喜地。
 こういう字ですよね歓、歓という字歓びです、本当の信心の歓びを感ずると言った様な時に、この歓を使うですね。それから普通ただ喜びというのは、この善導寺の善というみたいなのをくずすと、七という字三つになるですね。あの喜地是はどういうかというと、神も助かり、氏子も立ち行くという喜びなんです。天の歓びが神様の歓びであるならば、地の喜びというのは、氏子の喜びだ。人間の喜びと言う事なんです。だから人間が喜ぶというだけのです。
 ただおかげを頂いたと。病気か治りましたと、願い事が成就しましたと言う様な意味での、それは成るほど喜地ではあります、人間の喜びではありますけれども。それが神の歓び、歓天と言う事にはならない。天の歓びと言う事にはならない。だから字が自ずと違うわけです。この歓びとなら歓という字ですかね、それを歓びと読む。私は今日の御理解を頂いて、今の合楽教会の皆さんに、教会を挙げてのことですけれども。ぴったりと来た御教えはないと、今日は思いました。
 なぜ私がそう思うたか、皆さん分かりますか。皆さんも感じれれますかその事を。一人がおかげを受けたために、千人も万人もの者がおかげを受けるようになるから、良い手本になるような信心をせよ。千人も万人も助かるような助かり方。だからお願いをしておかげを頂いてと言った様な事やらは、大した事はないですよね。そりゃ人が助かると言う事にはならない。
 昨日昨日というが、毎朝参って見えますけども、この久保山さんがリュウマチで、足を難渋しておられて、それこそ医者に行っての治療が、痛うして痛うして堪えん、お願いに見えて、おかげを頂いて、それで村内の方達がこの頃小母しゃま、スコスコ歩きよんなさるがち、言うちから言われるから、そん時に言うならば合楽の、いわゆる示現神様のおかげで助かったと言う事を、言わにゃおれないように、人が聞いて下さるとこう言うのです。ほらたまがると言う様な、やはりおかげです。
 この方はなんですか、逆まつげが出来て、この大変難渋しておられた。もう娘さん達は、それを何日おきに取ってやらんなん様で、大変苦労しよんなさった。所がそれがおかげ頂いて、大祭からこっちおかげを頂いた。大祭の時に頂いたおかげ鎌で、この人差し指を深く切ってこの筋を切った。だからこりゃもう医者は筋を切っとるから、こう曲がったり、こうこならない訳です。ところがそれがこうやって手が、こうこすると動く様になった、大祭の時に。
 そして昨日では、もうこうこ手で加勢せんでん、こうやって曲がるようになった。どげん考えたっちゃ奇跡です。そういうおかげを頂いてです、とにかくそれを人にも、話さんならんような具合なんです。この頃あぁた足が、スカスカ歩きよんなさるがと、それがあぁたこんな訳で、金光様のおかげで、こげんしておかげを頂いたと言う事が言えれる。だから矢張り自分の身におかげを受けなければならんけれどもです。それだけのおかげでは、ただ奇跡を受けたというだけでは。
 ここで言う一人がおかげを受けたためと言う、いわば千人も万人も助かるという、それには繋がらない。昨日の御理解の中に、御本部で会議があっとります中に、教監それから、安田という先生が、いま教監をなさっとりますが八代、八代布教部長という方のお話の中から、昨日聞いて頂きました言葉の中に、教会というものを一つの信念共同体、又は運命共同体助かった人が、集まっている団体と言う様なですね。
 こういう私はおかげを頂かなければ、今日のいわば千人も万人も助かると、言った様な事にはならないと思うです。最近の本部の方でも、教監が変わられたから。それこそ本当に合楽で、今教団のことを願っておる、その願いの成就が始まったと思うように変わった。大変な変わり方をしておるです。今まで聞いた事もない事が、教監あたりのお話の中から感じられるです。例えばこれは教監のお話ですけれども。
 思うというよりも直感するということ。信念するというても良いが、論理的に出来るというよりも、具体的に事実があると言う事素晴らしいこと。もう理屈じゃないて、どんなに論理的に素晴らしいことが出来るというてもです。実際の上に出来なかったら何 にもならないち。というよりも、具体的な事実があると言う事の方が確かだとこういうのです。今までの本部の生き方にはこれが欠けておったんです。例えば人がどんどん助かると言った様な教会であっても。
 教職を持たないとかどうか金光教の信心に、間違っておるとかいう様なふうにしか言わなかったんです。人がここに助かっておると言う事実があるじゃないか。それを本当に取り上げなければ駄目だとこういうですね。どんなに論理にそれが合うておっても、論理的で出来るというよりも、具体的に事実があると言う事。それが是からの教団の構えでなからなければならんと言っておるです。本当にそれこそ拍手して喜びたい感じがします。八代布教部長のお言葉もそうです。信念共同体。
 昨日高橋さんが字引を引かれましたら、やはり信念共同体という字句があるそうです。この八代布教部長という、大変な学者であって教学者でも、又おありになる訳ですが。大変勉強しとらなければ、これは言えない言葉だと言う事だそうですね。信念共同体と言う事は。私はただそういう本当の助かったと。その助かったと言う人達の集い、いうならば合楽の場合なんかがそうです。
 合楽が強いというのは、本当におかげを受けた体験者ばっかりの集まりだと言う事です。合楽教会の今の強みというならば。だから私そういう意味にだけ思うておりました。けどもこれはもっと深い広い、いうならば共産党あたりで使う言葉だそうです。それを信心で頂くと、私が申します様な事に成って来るのです。次のね運命共同体、是は私も意味が分かりません。けども私は字句から、昨日も聞いて頂いたようにです。
 もう合楽と共にある信者で無からなければ、役に立たんと言う事なんです。例えば今日あたりの、千人も万人も助かって行くと言う事は、これはね沢山助かるという意味なんです。和賀心時代をいうならば、世界に敷くと言う様な、そう意味にも通ずる事なんです。例えば、数で限られた千人とか万人とかと言う事じゃないのです。一つの光の輪というものを合楽で投じたら、それが世界中にでも、輪になって光の輪が広がって行く。いわゆる光輪の世界と言う事が出来るという程しの絶対のもの。
 そういう働きが生まれて来るためにはです。いわゆる私は意味は分からんけれども、私流に解釈してです。運命共同体というのは合楽と共に、親先生と共にと言う事です。昔の人達の言葉で言うと、城を枕にしてといったようなことを申しますよね。殿様を中心にして、よし負けるならば、城を枕にして戦死しようという訳です。もし合楽の生き方が間違っておってです。そしてみんなおかげを落とすならば、一緒におかげを、落としても構わないと言う事なんです。
 秋永先生がよく言われる様に、親先生の言われる事が、もし地獄道に繋がっても、よしそれで良いというのです。その覚悟です。親先生任せになって、生きるも死ぬるも、親先生任せという人達のです。いわゆ、信念共同体というものがです、そういう信念を持った人達の共同体を以って、私は世の、世界の難儀に、当たらせて頂こう程しのものが生まれた時にです、成るほ、千人も万人もと言う事になるです。
 それを個人的に一人一人に言うとです。私が今盛んに申しております、合楽に御神縁を頂いておる人達は、まず自分自身がおかげを受けておるという自覚に立てと言う事です。自分私一人又は、一家中で信心をしておるなら、私一家はです私一人は、いつの場合であっても、極楽にあると言う事です。私一家だけはいつも本当に、言われれば言われるほど、極楽のおかげを頂いておるなぁと。真善美の世界にすんでおるなぁと。貧乏のない争いのない、病気のない世界に住んでおるなぁという自覚に立つ。
 一人一人の所ではこれなんです。そういうおかげを頂いておるという事実をね、ふんまえていうならば、合楽示現活動と言う事に、本気にならせて頂く人達がです、集まって始めて、打って一丸と言う事になる。そういう打って一丸と言う事が、打ち出されるならばです。本当にこの働きは、どれほど広がっていくか分からんのです。自分な助かってもおらずに、ただ人に話しゃ助かるけんで、導きゃ助かると言った様な形而なもんじゃないと言う事です。根本的に違うです。
 そういう働きがお互い一人一人の上に出来るようなおかげを頂いた時にです。いわゆる歓天喜地と言う事になるのじゃないでしょうか。天が歓び地が喜ぶ。神も助かり氏子も助かる。神様のお歓びは、そのまま私どもの喜び、私どもの喜びはそのまま神の歓びと言う様なです、おかげを頂く事になるのです。一人がおかげを受けたために、例えば病気なら病気で、さっきの久保山さんではないですけれども。
 本当に村内の人達が、この頃小母しゃま、あぁたスカスカ歩きよんなさるが、いやそれがあぁたこげなふうでおかげ頂いたと言う様な、ほうそんならいっちょ私もお参りしょうと言う様な位ならです。けども千人も万人もち言う事にはならないです。おかげ頂いた、決しておかげと言うものも、何でも同じことですけれども。本当のおかげがおかげとして、すっきり頂けるには、いろんな一つの過程があるです。例えば今度の御大祭に、高芝さんところの孫さんが、四十二度も熱があった。
 それを元気な心ですね、お爺ちゃんお婆ちゃんの、いわば信心でその孫を掻きう抱いて、お参りをさせて頂いた。もう不思議といやこげな不思議なこつはなか、もうこけ着いた途端に熱が下がった。おかげで兄弟遊んで回りよる。はぁこりゃもう一時的なもんじゃろうかと、こう思うておった。帰ってもやっぱり何ともない。だからそれだけでおかげを頂いてしまや問題無いです。
 ところがです、昨日何回も電話がかかってきた。その子供が血便をした。さぁ慌ててから、その娘がさぁどこの病院ここの病院と言うて、病院に行った。もうそれこそおかげ、今までさっともうこりゃ、もう不思議なおかげじゃある、こりゃもう私どんどうでんこうでん、しっかり信心せにゃち言いよったつが、今度はいっぺんにお爺ちゃん掴まえてから、責任を取ってくれち言い出した。もうほんとにがっかりするでしょう。
 はぁ親先生があげん言いなさったばってん助からじゃった。親先生責任を取ってくれと。そう言う様な事をやっぱし言う人が、沢山あるです。けどもそういう時にです、うろたえてはいかんという事。はじめ久富先生が掛られたから、そげんあんたなしお医者ば先てんなんてんち言わんな、親先生にお届けしてからせんのと、こう言うたと言う事を、私は聞いたんです。それからまたすぐ合間のう、電話が掛って来てお爺ちゃんから電話が掛ってきました。
 神様に私は丁度四時のご祈念でしたから、すぐお礼をさせて頂いたら。紫の何て言うですかねあれは。フジバカマですかなんとか花があります。あの花を頂いたからそりゃいっちょん心配するこっちゃない。勿論私はそれを頂く前からです。そういう例えば本当のおかげをおかげにすっきりして、本当におかげと実感させる為に、そういう働きが必ずあるです。そういう時にお爺ちゃんもお婆ちゃんもです。いうならば慌てた感じです。
 責任取ってくれなんて言うもんじゃから娘が。いくら親子の中でもやっぱり、そりゃほんにとやっぱこう思うです。まあ夕べも夜中に、お爺ちゃんとお婆ちゃんがお礼に出てきました。お医者に行った。成程血便は間違いないけれどもです、医学的に血便が出て普通の便が出ると言った様な事はないそうですね。何かそこんにきは大変色々説明があったですけれども。いうならば結局は心配は要らんと言う事。
 そしてからその病院でから、どの子ですかち言われたげなら、はぁあすけ遊びさるきよるとちこう言うた。大体それこそそれ前は、もう家中を消毒せんならん隔離せんならんと言う事で心配だったんです。医者はそう言った訳です。所が実際に本人の診察をした所がです。おかげを頂いて例えば、あんた方が心配しよるごたる病人が、こげんしてどうして遊んで歩くかと言う。
 結局それはね実際は、大変な病気であった事だけは間違いないぞと、神様が教えて下さったんです。だからそういうおかげを受けたという実感がです、本当なものになる事のために、そういう神様の演出もあると言う事です。だから問題はいつの場合でも、どんな場合であっても、いわば城を枕とかね、親先生が言わっしゃる事に間違いがないがのと、娘にでんその時言えれるものをです。
 例えば一の矢は見事に受け止めた。二の矢も見事に受け止めたばってん、三の矢でよろよろするなら、それでまたおかげを元にぶっ返ってしまう様な事があるんですから。だからそこん所をです、これ程しの神様の働きを受けておる事であるから、絶対間違いない。高芝さんは言われたそうです。こりゃ神様のお試し受けよるとぞち。事実がそうなんだ。だから医者も要らなければ、薬も要らんのですけれども。
 そう言う様なね、そういう時が、私が今日申します、信念共同体と言うか、また運命共同体と言った様なものが、そういう信心がほんとに腹入りしとかなければ、出来ないと言う事。だからとてもそれが、三年後年で出来るとは思われませんけれども。例えばどういう難儀な問題にあって、心配は要らんがのという安心が、すでに助かっとったと言う事です。一の矢の時には安心しとったけれども。
 二の矢ではもうぐらぐらしとるなら、助かっとるとは言えないでしょうもん。そういう時に例えば、関さんじゃないけれども、船もろともという気になれという、なっとかなきゃならんと言う事なんです。ままよという心が、そういう時に出せれる。そういう信心をです運命共同体、そういう信心を持った人達が、沢山あると言う事です、共同体ち言う事は。だから完璧とは言えなくてもです。
 私が今皆さんに言っておりますように、合楽の皆さんの一人一人が、極楽の自覚。本当に極楽のおかげを頂いておるという自覚に立った人達がです。集まってそして次の極楽じゃない、まいっちょ向うの、合楽示現活動と言う事になってくる時です、それは千人も万人もの者が助かっていく働きになってくるのです。一粒万倍、私は今の合楽にです、天地金乃神様の願いというものが。
 この一粒万倍のおかげを頂いてくれよという働きを感じます。でないとです、実際にこの安田教監の、話しておられることの中にもあるようにです。具体的に事実があるということ。そういう事実に、ふんまえていけれる内容を、合楽の場合は、二十五年間の間に、いうならば先日のお月次祭の時の御理解じゃないけれども、そういう基礎が出来たんです。そういう基礎が出来ておるとこは。
 どこにもないいうならば。ですからこの上に打ち立てていくというおかげ。それに私どもは、どうでも極楽自覚、そして合楽示現活動と言う事に参画させて貰えるようなおかげを受けさせて頂く時にです、一粒万倍のおかげと言う事になってくる。千人も万人もというおかげになってくる。良い手本になるような信心とは、そういう信心を言うのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。